思考を停止していても受けられる授業ではなく…

来週の図画工作で「自分だけの玉子を作ろう」という授業をするために先週末は石膏だらけになって石膏玉子をクラスの児童の人数分を作って終えました。 https://www.zowhow.com/claycarving_index_te/dinosaur-sekkou-balloon/ 最初にニワトリの玉子を触って、 「これは調理のときとかによく見るよねー」 と。  で、石膏の玉子(ちょうどダチョウの卵くらいの大きさを)を出して、比較してみる。  「でかっ。」  そして、何の玉子だろう?ってひとしきり考える。  「この玉子何なんだ?何が出てくると思う?」  きっと発想力が豊かな子たちなので、サザエさんとか、スプライトとか、貨物列車とか、ビー玉ビーすけとか、いろいろな面白い答えが出てくるんだろうけど。  そして、オリジナルの玉子にしていこうと、ちょっと補助線を引く。  「アンパンマンの玉子だったらきっとこんな感じかな。」  「土星の玉子だったらきっとこんな感じ。」  「〇〇君の玉子ならこんな感じ。」  「カレーライスの玉子ならきっとこんな感じ」  その上で、アクセスは多様にしておく。 ・手に絵の具をベッタリとつけてヌルヌルと仕上げていく子。 ・油性ペンを使って繊細に描き上げていく子。 ・轆轤をつかって、円盤を描いていく子。 ・タンポを使って叩き上げて描いていく子。  この辺は目標に拠るので、目標立てをしっかりと…

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夢やねがいをもつことの大切さ

 最近娘が「NiziU」が好きだということで、昨日の夜はJ.Y.Parkとのやり取りを一緒にTVで観ていました。J.Y.Parkは、まだ緊急事態宣言中の5月にスッキリで特集されていたので、少し観たことがあり、「名言集」ができるくらい「ことば」に力がある人だという噂くらいは知っていたのですが、昨日観た感じでは、私は違う印象を受けました。  まず感じたのはNiziUのメンバーの女の子たちに「有名になりたい」とか「自分自身を表現しきって、多くの人に観てもらいたい」とか「ダンスや歌が上達したい」という「強く、明確な夢や希望」があるということでした。その前提条件の上で、J.Y.Parkの巧みな指導やことばが、彼女たちの琴線に届き、そのやり取りが視聴者を感動させるのかな…と。  転じて。新しい学習指導要領ではPISA等に代表される「国際的な学力観」に「日本の旧来的な学力観」を寄せるべく A.「詰め込み型(「思考停止型」と個人的には言った方が良いと思う)」の学習方略 から B.「対話型」の学習方略 へと転換し、 A.コンテンツ(点)としての知識の獲得 ではなく、 B.コンピテンシー(基軸・柱)としての知識の獲得 という結果に向かうことになりました。 その中で、先生である私自身も 「あーしろ、こーしろ」  という指示ではなくて、環境を整えた上での 「どうしたら良いかを一緒に考えてみようか」  という支援スタイルに変換してきて…

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「障害の重い子に、いかに教科の学びにアクセスできるようにするのか」について

 タイトルの件について、新学習指導要領の話が出てきてからずっと考えています。  解説編の188ページだったか、今回の学習指導要領では教科別の指導の目標に自立活動の目標を併記することは原則としてできなくなっています。つまり「算数/自立活動」や「国語/自立活動」といった教育課程は「各教科等を合わせた指導」となります。もう一歩踏み込んで、特に肢体不自由特別支援学校の発達が緩やかな児童や生徒に組まれている自立活動中心の教育課程の中での例えば「ことばかず」(「算数寄りの自立活動」)や「うんどう」(「体育寄りの自立活動」)などは「「自立活動」と位置づけるのか、「各教科等を合わせた指導」と位置づけるのか」が迫られ、その延長として「障害の重い子に、いかに教科の学びにアクセスできるようにするのか」という課題がより鮮明になってきているように感じます。  障害の重い子に何の環境設定もなく、短絡的に教科の内容を提示してもそれはダンピングになるということは「水増し教育」などの歴史から見ても明らかです。そうではなくて、自立活動での調和的発達の基盤の上に教科の学びを実現して、「生きる力」に迫れないか、と。  また、教科とは何か?と思うのですが、僕の中の認識では 「同じものを見ても、いろいろな切り口から捉えられること」  解釈しています(見方・考え方)。  例えば 「赤い車」  を見ても、算数から見れば速度や長さ、重さから捉えられるし、図工から見ればデザインとして捉えられるし、音楽…

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「おかねのけいさんできません」男性自殺 障害の記載「自治会が強要」のニュースを読んで

「おかねのけいさんできません」男性自殺 障害の記載「自治会が強要」のニュースを読んで タイトルのニュースを読んで、障害のある弟をもつ兄として、何だか暗澹たる気持ちの中、いろいろと思いをめぐらせました。 毎日新聞:「おかねのけいさんできません」男性自殺 障害の記載「自治会が強要」https://mainichi.jp/articles/20200731/k00/00m/040/044000c 障害のある子どもの親もいずれ年をとり、亡くなっていきます。兄弟のある人は、親亡き後も親族のサポートが続くケースもあると思いますが、兄弟の無い人は、親族のサポートが親が亡くなった時点で無くなり、後見人制度や任意後見に切り替わっていく(もちろん事前に切り替えておくケースもある)。地域の中で親という拠り所を無くしても尚、たくましく生きていくことを求められる障害のある人も少なからずいるはずだよな…と。 その中で「障害者」というラベリングは、本来的には「支援が必要な人」の意味として機能するために付けられるはずなのですが、それが上手く機能しなかったり(今回のケース。「障害」が有るからといって、みんながイヤな自治会長を特例的に回避することは許さない。さもなくば晒し者にすると)、あるいは障害者というラベリングが差別につながったりするケースも多くて、本当に生きづらい…と思います(例えば、昨年10月の水害の際にも、知的障害者施設が浸水し、避難所に「障害のある人たちが避難したいです」と申し出たところ門前払いされたというケース…

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コロナを経て『集団に埋もれて「できない状況」の続く子』をさらに減らしていくことはできないか?

 特に知的障害特別支援学校では、人数が増え続け、首都圏の学校では「過密」という状態になっている学校も多くなっています。その中では、例えば特別支援教室の調整も三つ巴、四つ巴になっていて、器具・楽器を含めて授業をするのに授業担当が方々に調整に走る…なんてことも…。そして、特に体育や音楽、行事活動などはなかなか個別グループ化できずに、集団活動になったりします(今回のコロナ禍の分散登校の際には解消に向かった学校もあったと思うのですが…)。先生全てがピアノを弾ける訳ではないし。体育は狭い空間では中々やりにくい活動もあるし…みたいな。  さて、その大きい集団での授業になればなるほど、先生に右へ左へ連れて行かれ、ダンスではつないだ手をブンブン上下され、歌の時には耳を塞いで、気を引こうとしてちょっかいを出しては「ダメでしょ」と言われてしまうようなお子さんは、SOSを発することができないままに「できない状況」が続いてしまっている…なんてこともまだまだあるように思います。改めて集団場面での「できる状況づくり」って一体何なんだろうな…と考えさせられますし、基本は子どもの多様性に応じやすい小グループないしは個人からのスタートしていって、大集団でこその学びをねらう際に大きな集団へ…となるのでしょうけれど。準備も膨大、調整も膨大…となる中で、私自身も含めてなかなか実現に向かえてこなかったように思います。  「できる状況づくり」が提唱されて久しい今でも、例えば、運動会も文化祭の劇も、本来的には「運動の学習成果の発表…

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音楽大学に入ります

あまり上手ではないのですが、前任校では持ち込まなかったOvationのCelebrityをおよそ10年ぶりに出して、音楽熱に火が 灯り始めています。ギター、たのしい。一緒に組んでいる先生が計らってくれて、音楽の授業で伴奏をさせてもらっています。たのしいたのしい。実はひっそりエフェクターを持ち込んでいます。RolandのギターアンプCube30もまだ音が出ました。10年ぶり。たのしい。 さて、タイトルの件。半分本当です。でも月謝980円の無認可大学という面では半分冗談。でも、添付画像のキャッチフレーズが良い。独学のピアノをもう少しナントカしたい。でも、真面目にツェルニーを続けることができない。でももっと上手に弾きたい。 シブヤ音楽大学 https://shibu-on.com/ 『ピアノが1日で弾けるようになる』って!しかも学長は佐村河内さんのゴーストライターをしていた、スゴ腕の新垣隆。前からクラウドファンディングしていることは知っていたけれど、8月8日に正式開校とのこと。オッサン、音大に入る。いくつになっても学びを始めるのに遅いということはないのだ。 歌を歌うのにオンチなんていうのは単一尺度から見た場合のみだし、楽器を弾くのに必要なのはまずはウルトラソウルだろうと。 正直、小・中と一番嫌いな科目は音楽だったし、高校でも選択科目で敢えて避けて通った音楽。合唱コンクール、「声を出せっ!!心が一つにならないぞ!!」という先生やパートリーダーがごく、ごく控えめに言ってとてもキ…

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自分の「不機嫌な感情」を他人の行動を変える元手にしないということ

ヘーゲルの「教育とは圧倒的に他人の自由を認め、それによって自分の自由を得る術を学ぶことだ」という『自由の相互承認』について時折思いを馳せます。教育の土台、根っこ、基本は自由権を有する法治国家である日本において自由の相互承認ができる人を「生きる力」を具体的な実現のイメージとして形成していくことだと。 さて、これを逆から取ると「他人の自由を認めない」ことや「他人を不自由にすること」=「他人に支配的に接すること」については、努めて慎重にならなければいけないな…と思っています。これは「大人-大人」の関係に留まらず、指導場面においての「大人-子ども」の関係においてもですし、もっと言えば「父-自分の子ども」という家庭での日常場面においてもです。 そんなことを考える際に、一番の気をつけるポイントがタイトルの「自分の不機嫌な感情」の処理の仕方だな…なんて思い、備忘録的に記事にしました。自分の気持ちが不機嫌だと、支配的に接しようとしてしまう。ことばに限らず、ため息をついてみたり、返答がそっけなくなってみたり、表情が曇ってみたり。そして、無意識のうちであったとしても、そういう「不機嫌さ」を元手として他人の行動を「乱暴に」変えようとしてしまっている時があると。不機嫌さを元手とした他人の行動の支配。自分のこういう行動を強化してはいけないし、無意識の内にしても子どもたちにこういう行動を教えることになってはいけないな…と思います。 「自分の機嫌は自分でとる」 「自分の身体と精神が自由であるために、ルー…

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ASDのある子の遊びと幼小間接続

 「遊びの指導」の担当になったことがきっかけで折を見て幼小間接続について眺めています。先週、紐解いてみたのは2016年の中教審の幼稚園教育要領に関する審議まとめの資料。 https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/057/sonota/__icsFiles/afieldfile/2016/09/12/1377007_01_4.pdf幼稚園卒業時までに育てたい10の姿や、幼稚園のカリキュラムから小学校への接続のイメージとスタートアップカリキュラムの概念、「遊び」が幼稚園段階では「調和的発達の基盤」と捉えられていることなどが分かります(知的障害特別支援の教育課程では「調和的な発達の基盤」のための学習は自立活動だけが位置づけられていて「遊びの指導」は「各教科等を合わせた指導」の位置づけですが)。さて、以上の上で、特別支援学校の特に小学部に通う「発達がとても緩やかな」子どもの「遊びの指導」について考えるのですが、特に自閉スペクトラム症のある子(以下ASD児とする)についてはそのまま「遊びが大切」だとは言い切れないよな…と思いながら見ています。僕が入職した10年以上前には「ASD児は幼少期に十分に遊ぶことができていないから遊びが重要」と教わることもありましたが、今ではもう一歩踏み込めるのかな…と思っています。具体的にはASDに由来する感覚異常(感覚の過敏や鈍磨)によって3項関係の形成がうまく行かなかったり、しがみつくという行為がうまくできなかった…

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「からだの指導」に「鏡」を積極的に使ってみたらどうだろうか?

肢体不自由特別支援学校は「からだ」に関する指導の時間が毎日あって、例えばその中で取り組む「歩行のための下肢の使い方」への取り組みは、野球やテニスになぞらえるのならば「きれいなフォームの獲得」に近く感じているのですが、この指導を続けて見て最近タイトルの件を考えています。 指導の仕組みが「フォームの獲得」に似通っているのであれば、「鏡」を使って、視覚から「も」フィードバックできるようにして、自己調整につなげていけるんじゃないかと。良く言う「入力の複数感覚化」に近いのかな、、、と。 野球のバッティングフォームやピッチングフォームの確認、テニスのフォアハンドやバックハンドのフォームの確認をiPadを使ってスロー再生して取り組んでいる…なんていう部活は、きっと最近では増えてきているのではないかと思います。私が中学生だった25年ほど前には、ビデオで撮って見せてくれる先生なんて稀だったけれど、それでも体育館の鏡の前や、家の三面鏡の前で何度もフォームを確認して、自分のフォームをきれいにしていった記憶があります。もっと身近な所ではフィットネスクラブやダンス教室は鏡張りの部屋で行われることが多いですが、あれも視覚的なフィードバックによって自分の身体のどこに働きかける動きをするのかを、インストラクターの指示や示範と共に、自分の動きを鏡で確認しながら自己調整してより効果的な働きかけを自分でできるようにしていますよね。 肢体不自由特別支援学校に限らずですが、「からだ」への指導の際には「鏡」によっての視覚的…

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後に行くほど「楽」になるようにものごとを最初の段階で設計すること

通常登校になってから1ヶ月。異動初年度ということもあり、怒涛の1ヶ月でした。毎日が発見と試行錯誤、そして多くの反省の連続。自分自身も成長に向かうことのできる環境に感謝です。 さて、タイトルの「後に行くほど「楽」になるようにものごとを最初の段階で設計すること」は最近いろいろな物事についてよく考えていることです。 例えば、子どもの指導計画を考える際にも子どもの卒業後の姿を想像して、卒業後の生活が「楽に」(特別支援教育では一般的に「豊かに」と表現しますが)なるように今の支援を設計(計画)していきます。この設計がしっかりしていないと、例えばその子が本来的に獲得ができるはずだったコミュニケーションが獲得されないまま将来を迎えてしまうことで将来が「楽」でなくなったり、例えば負担のかかる歩行の仕方が残って移動が「楽」ではなくなってしまったります。こういう意味で、将来の「楽」を意識した設計は大切だよな…と。 また他の例えでは、その日暮らしの授業を今でもたまにしてしまうことは自分自身のイケナイところなのですが、最初の単元計画の設計の段階で、後に行けば行くほど、子ども自身が学びを進めていくことができるような設計にしておくことができれば、入り口の知識や技能を教えるのは大変だとしても、それが思考や判断や表現につながるステップにおいては、自分自身の「楽」にもつながるし、子どもにとっては「楽しい」につながるのだろうな…と。 他にも最近流行りのリモート会議も、リモート会議の物珍しさの達成感で終わるのでは…

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