2015年11月08日

「叱らない支援」ではなくて、「前もって伝えておく(そして納得してもらっておく)支援」

 「叱らないで褒め伸ばす支援がいい」ということを、書籍でも目にしますし、様々な講演でも耳にします。そして、それを実践に移そうとするのですが、学校内の意見は賛否両論の所もあったりして、「しっかりと叱った方が良い」とか「なんで叱らないのか」とかという意見をもつ先生もいます。今回はそんなことについて考えるエントリ。

 何か子どもが行動を起こして、それに対して指導が必要になったときに「叱る」ということが選択肢に入ってきます。例えば給食の最中に突然立ち歩いてしまうようなことがあれば「叱る」という選択肢が採られる。でも、大抵の場合「叱る」という方法によっての効果を測ってみると効果が上がっていない。でもでも「叱る」と大人側が何だかスカッとするし、先生なら仕事しているようにも感じられちゃうから、「効果」とは全然別の所で大人側が強化されてしまっていて「叱る」ことが継続されてしまっていたり、或いは「悪いことは叱るものだ」というステレオタイプによって(他の方法を知らないことによって)「叱る」ことが継続されてしまったりする。

 これに対するのが「褒める」支援。確かに、子どもが適切な行動を表出することができるように環境づくりをして「褒める(ないしはその子の好子を提示する)」ことは、次回の望ましい行動の生起頻度を上げる上で大切なこと。でも、これだけだと「しっかりと叱ることも必要」とか「何で子どもが悪いことをしたときも叱らないんですか」という意見をもつ先生に納得してもらうことはできない。「次回の望ましい行動の生起頻度を上げる」ことと「次回の不適切な行動の生起頻度を下げる」ことは、この段階では論点が合っていない。」ここには「叱る」という行動自体を回避しようという努力が必要なんだ、という理解と工夫に論点を置いて、論点を合わせる作業が必要なんだろうなと思います。

 「叱る」ことを回避する努力として、一番労少なくして、効果が高いのが「前もって伝えておくこと」と「納得してもらっておくこと」。子供たちは前もって分かるようにやって良いこととやってはいけないことを分けて説明しておくとその後の行動を結構変えてくれるし(もし行動が変容しなければ、伝え方を変えればいいし)、大人にもその心づもりがあれば「叱る」ことが減っていきます。

 そして、大人側にはこんな問いかけも必要。

「今、私、叱りたいけれど、事前にちゃんと説明してあったっけ?そのルール提示を本人も納得していたっけ?」

 「叱らない支援」ではなくて、「前もって伝えておく(そして納得してもらっておく)支援」が大切なんだろうな…と、自分を戒めるエントリ。でも、言っちゃうんだな…「こらこらー、何やってるんだー」と…。反省です。 

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2015年11月06日

やらせればできるんだからやらせるのか?完全に子どもの自己決定に任せるのか?

 久しぶりのエントリは二極思考的なタイトルから。

「その子の意思を尊重するってことを大切にしすぎると、本来『やらせれば』できることができなくなってしまうのか問題」

について。

 この議論は私自身も何度か現場の中で直面したことがあります。

「強要する」のは良くない!自分で選び取ることが大切!

に対して、

「やらせなければ、何事もできないじゃないか!」

 との二極論。

 この議論、「その子の意思とか自己決定を大切にする」ことを大切にする側ももう一歩踏み込む必要があるのかなと思います。

 「準備無しに意思や自己決定を大切にする」のとはちょっと違う。

 大人のリードや状況づくりがある選択肢があって、しかもそれがいくつかあって、しかもそれがいくつかあって(大切なことだから2回目)、その上で子どもの選択とか意思決定とか自己決定とかが行われるのだろうと。

 「やらせたいことがある」ことは決して悪いことではない。でも、それを直球で「強要」することは、このご時世、時代錯誤も甚だしい。人権意識が問われるところです。

 したたかにリードする。

 したたかに、複線化して、リードする。

 したたかに、状況作りをして、複線化して、リードする。


 そんな感じ。「やらせたい」なら準備する。「シゴク」とか「シバク」ではなくてしたたかにリードする。そんな感じなのだ、きっと。

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posted by 桑ぴょん at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 指導・支援 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月17日

「壁」ということばについて

歳を取るごとにいろいろなことばの意味合いやその背景にある概念を説明してしたり、伝承したりしなければいけない場面も増えてきています。その中でも、1つ大切だと思っているのが「壁」ということばの説明です。

特別支援教育の分野において「壁」ということばは「取り除くもの」として扱われることが多い印象があります。「バリアー」と等質なことばとして使われることが多いからでしょうか。

○ 人権上の壁を取り除く
○ 物的環境上の壁を取り除く
○ 認知特性から生じる壁を取り除く
などなど。



一方、「壁」を乗り越えることによって成長するという考えも聞きます。大人でいえば、ちょっとできなそうな仕事を乗り越えることによって1つ仕事の仕方を覚えていく、というような。この意味合いでの「壁」は「課題」に近い捉えでしょうか。

○ マラソンで1q5分の壁を練習の末に乗り越えた
○ 勇気を出して話しかけることによって、対人関係上の壁を乗り越えた
○ 一緒にスポーツに取り組むことによって言語上の壁を乗り越えた
などなど。

ちょっと頑張って、何かを乗り越えることによって得られることがある。それは確かにそうなのです。

この2つを分けて考えないと「壁は取り払うべきだ」と「壁は成長を促すには必要だ」という2極化した論争になってしまいます。不必要な生活苦を生むような壁(バリア)は取り除くのが良いし、頑張れば乗り越えることができて、それによって成長が見込まれる壁(課題)は、「ちょっと頑張れば乗り越えられる」という環境づくりをした上で設定をするのがいい。

ことばにすれば簡単に理解できるようなことなのですが、ちょっとしたことによって指導者間の価値観がズレることってわりと多いんだよな…と思っています。

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posted by 桑ぴょん at 09:12| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月06日

行動変容のアクションは子どもが絶好調の時に

何だか、久しぶりの投稿になりますが、この夏はいろいろな発表の機会や、講師の機会をいただき、たくさん勉強をさせていただいていました。

さて、基礎基本に戻って。私たち子どもの応援団である大人は、日々子どもが行動変容していくことをお手伝いしているのですが(担任においては「楽しくさせてもらっている」という表現になりますが)、その基本はあくまでも「子どもが調子のいい時に、『こうすると良いよ』と伝える」ことにあります。とかく、大人は子どもが何か不適切なことをした『機会をとらえて』ルール提示なり、指導を入れたりしてしまいがちですが(機会利用型というやつです)、この「機会利用型」の支援がうまくいく時は「本人がその限られた機会を通しての経験を省みて、納得した場合」に初めて次回の行動が変容するのであって、本人の納得が伴わなかったり、「次回は行動を変えた方が良いことがありそうだ」と思えていない場合には次回の行動変容にはつながりません。子どもが調子が良い時に「こういう時にはこうした方が、いいんだよ(結果的にはいいとか、おとくとか、すてきとか。)」 教える方が次回行動が変容しやすい。いずれはWIN-WINなんてことがわかっちゃうと最高にすてきだけど。

 「だめ」「しない」「やらない」「わかりましたか」。そんな言葉で溢れかえる日常ですが、全ては次回の行動に変容が見られてこそ。日々の行動がいい方向へ向いてこそ。僕らは最初は100%の内、1%しかいい行動をもっていないお子さんを、10%,20%,30%とその率を上げていって、90%はいい行動だねーなんていう姿に近づけることを日々目指している。行動が変わってこそ。

「なんだ、こうすれば次回はいいことがあるのか

 そんな風に納得しながら進んでいくような日々が連なるように、自分自身のへたっぴーな支援が少しずつ良くなっていくように、二学期も頑張って行きたいと思っている、9月の初めです。   
posted by 桑ぴょん at 19:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 指導・支援 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月12日

権利保障の進展に準備や配慮が追いついていない場合について。追いつかせることについて

障害のある方の権利保障が進んでいます。例えば、今までは自分が住んでいる学区の小学校に特別支援学級があった場合でも特別支援学校が適当であると判定された場合には、特別支援学校に行かなくてはいけなかったのですが、徐々に本人と保護者の意向によって地域の小学校に通えるようになってきたことや、例えば今、私自身は障害のある人の性教育について一生懸命に調べているのですが、障害のある方の性生活についてもセックスヘルパーなどの著書に現れているように少しずつ権利保障が進んでいます。

さて、ここでダンピングに似た問題を感じることがあります。例えば、普通小学校に配慮がないまま(人的ないしは物的な準備が間に合わないまま)子供たちが入学ないしは編入をした場合、子供は学習上・生活上に様々な支障をきたします。また性生活についても配慮なしに性生活をオープンなものにしてしまうと様々な支障が出てくることでしょう。ここにはやはり合理的な配慮が必要になってくるわけです。

昨今、障害のある方の権利保障のスピードが速いのに対して、準備や配慮をどのように行ったらいいのかという、手法やツールの普及速度がゆっくりであることによって、オープンになった場に配慮や準備が間に合わないケースがある。そこに飛び込んでいってしまうと、結局ダンピングと同じことが起こっているではないかと。(特別支援学級での話を特によく聞く印象があります。)

次々に権利保障がされていくということ自体は大変喜ばしいことだし、障害のある方々の生活が豊かになっていく推進力になると思うのですが、権利保障がなされたことによってオープンになった場の、準備や配慮が間にやっているかどうかということについては注意深く見ていかなければいけないなと思うし、その場に必要な手法であったり、ツールであったりといった配慮や準備をしていく上でのお手伝いができればと思います。

権利保障がなされていく速いスピードと、準備や配慮がなされていくゆっくりなスピードとのタイムラグによって生じる問題についてあれやこれや考えています。
posted by 桑ぴょん at 15:36| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月05日

少数派が当たり前に配慮されるところから、集団の教育が作られていくといいな

特別支援学校では今、障害特性に応じて指導することの大切さが重要であると研修や校長伝達等を通して繰り返し担任をしている教員レベルに啓発を図られています。もっとLDについて知ってください、もっと自閉症スペクトラムについて知ってください、もっとADHDについて知ってください、もっとダウン症について知ってください、と。
でも、これってもっと土台に課題があると最近感じています。

★特別支援教育を普通教育をベースにして、そこに特別支援の要素を適宜取り入れる形で行うのか
 
☆特別支援教育を障がいがある人の少数派のニーズを起点として、集団の教育を形作っていくのか

 特別支援学校の先生の中でも、前者の★のスタンスの先生が相当数いるのですが、「普通教育に、特別支援が寄せてきてね」というスタンスの先生とはどこまで行っても噛み合わないなぁ…と思うのです。

 決まって聞こえてくる声は、

「そんなことでは将来やっていけない」

「将来、そんなに配慮される環境はない」

「障がいがあっても、ダメなものはダメ」

 なのですが、これを聞く度に思うのです。

 学校の先生は、「障害がない(現状)」という意味において多数派にいて、少数派である子供たちに、先生が受けてきた多数派の普通教育に寄れというけれど、障がいのある人に配慮するということや、特性に応じるということは「多数派に子供を押し込める」ということと全く別のことなんじゃないかな、と。


 ちょっとアナロジーを使えば、左利きの人がいるとして、右利きの人が、

「左利き、不便だね。色々と配慮しているように見せることはあるけれど、最終的には右利きになってね」

 といっているのと同じなのではないか、と。

 左利きの人は左利きのままでいい。でも、社会を生きていくのに、左利きであることによって不便さや、参加制約が起こるのであれば、それにどこまで配慮を求められるか、どんなツールがあればそれを解消していけるのかを一緒に考えましょう。というスタンスが障害特性に応じるということだし、配慮ということではないかと。

 頑張らなくていいと言っているのでは決してない。ちょっと頑張ると良い事あるということに、ポジティブな子供に育ってほしい。でもそれは、多数派の人に近づくということや、成績優秀な知的障害のある人になることとは等質ではない。

 少数派であるその子供のニーズから出発しなければ、その子はいつまでたっても現状を否定され、普通であることを求め続けられてしまう。障がいがあるという少数派の君は、どこまでいっても障がいがあるという君のままで認められていくべきだし、それで他の人と変わらぬ幸せになるべきなのだと。

  少数派が当たり前に配慮されるところから、集団の教育が作られていくといいな…と日々思っています。
 

 
 
posted by 桑ぴょん at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 指導・支援 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月21日

「叱る」ことを指導方針の中心として、般化と維持を行って「マイナス」になるケースについて

ある場所で丁寧に獲得した行動を、人やものや場所を変えても表出できるようにして、それを自ら表出し続けられる様にしていくということは、行動変容を考える際に非常に重要なことの1つです。

例えば、「バイバイ」を教える場合。

身近な人に子どもが「バイバイ」をすると、お母さんや先生は「わー!すごいね!上手だね」と褒めます。子どもは得意になってバイバイをしてくれるようになります。

「ママ、バイバイ」
「先生、バイバイ」


これが進むと、今度は人と場所を変えて、校長先生の前で「バイバイ」ができるようになっていきます。

「校長先生、バイバイ」

すると、校長先生は満面の笑みで

「すごいね、上手だね」

と言ってくれます。場が拡がる。人が拡がる。般化です。

子どもはさらに嬉しくなって、最後には犬や猫やコップやうんちにまで「バイバイ」が言えるようになります。

「そうだね、バイバイだね」

そして、それが長期に亘り持続されるようになる(バイバイは死ぬまで使いますよね)。これが維持です。

これをやっていく際に、「叱る」ことが指導方略の中心になっている支援者が、思いつきで(褒める準備無く)般化と維持を行うと、

「ほらっ、校長先生がいるでしょ、どうするんだっけ?」

と急かされて、もしも「バイバイ」が自発しなかった場合には「叱り」が入って、

「何で、バイバイできないの?できるでしょ?○○くんはバイバイができる。先生は知っている。手を抜かないで!」…orz…。

となってしまうのです。次回も入る

「今日こそはできるよね!」

という、一種の「脅し」。

「般化」に難しさが出ているということが「手を抜いている」ということとすり替えられてしまう。

結局、その大人が怖いから校長先生に「バイバイ」をやむなくするわけだけれども、それって、その先生に怒られるのを回避して「バイバイ」を出している訳なので、その先生がいない場面では「バイバイ」を自発しなくなってしまう。

こうなってしまった子について、再度バイバイを教える際には、もはや「0」スタートではない。「マイナススタート」になってしまう。でも、叱った大人は、叱って行動が表出される(表出させた)ところを見てしまっているので、叱ることが強化されてしまっている。

マイナススタートのことも多いよな…でも、叱り中心の人に「それって、違いますよ」といって、スグに変わってくれるほど、大人の支援も簡単じゃないんだよな…と思い知る日々です。

「あなたとの出会いが、この子にとってはマイナスでした」

ってもし自分が言われたら、立ち直れないな…と思いながら。

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posted by 桑ぴょん at 08:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 指導・支援 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

調理の際の明朗会計

 先生の「会計事情」も昔に比べるとずっとずっと厳しくなってきています。例えば、当たり前のことですが、調理の材料を買う際に自身のクレジットカードなどを使うことは硬く禁止されています。1ポイントでもポイントが付いてしまうから。1円でも100万円でも着服は着服。明朗会計です。

 でも、途端に緩くなってしまうのが、調理活動の後の「余り」。時間内で調理を行う際に、「余り」が出る場合があります。これをどうするか?

 「全部廃棄するのはもったいない」

 という人もいる。でも、その後に続くのは「先生たちに配ってみては?」という提案。これが、実は問題があるのでは?と思っています。残り分とは言え厳密に言えば、子どもたちから徴収したお金で買った物であり、一種の着服に当たるのではないかと。ならさっぱりと廃棄するというスタンスで今までやってきました。(明朗会計とは別の問題として食中毒の問題もありますし。)

 きっと、そういう方向性でセーフに持っていくのならば、予め「校長先生の分も、食べる以外に作ってあげよう」とか「○○先生の分も作ってあげよう」とかとしておいて、「ハイ、どうぞ」までする学習にするということなのかな…とも思います。

 一時期、コンビニやファミレスで廃棄物を厳密に廃棄するかどうかということが問題となりましたが、食品を扱うバイトの学生でももっている感覚が、実はまだ先生では甘い…なんてこともある訳で。着服は着服。気をつけていかないと、こんなことで懲戒処分になるのでは無いかと。

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2015年06月20日

「教室の外に引っ張り出して叱る」ということについて

このところの虐待・体罰に関する報道や、昨日、Facebookで回ってきた以下のリンクなどから色々と考えさせられることがあって、特別支援学校での日常を頭の中でグルグル…とさせています。

「切れる」だけは我慢して欲しい。
http://fami-lab.com/archives/918

障害者虐待防止法や障害者差別解消法などの法整備が進み、法的には障害のある人の尊厳や権利、もっと身近な所でいえば「安全」が保障されていく中で、なかなか変わらない現場。その中でちょっと気になっていることを。

以下、フィクションとして。

これは色々な特別支援学校でですが、子どもが言うことを聞かない時に、まるで凧でも引くかのようにあっという間に子どもが外に引っ張り出されて指導が始まることがあります。(特に自閉スペクトラム症の子が多い印象)大人も子どもも

「あっ、あの子、ひどく怒られるな」

と分かりながらも、

「言うこと聞かなかったからね」

と。そして、5分後に帰ってくる泣きじゃくる子どもと、やたら優しい先生(スッキリしたのと、叱った罪悪感からか…。)。

僕も若い頃はさもありなんと思っていたけれど、落ち着いて考えてみれば、自分自身、人生の中で教室外にすごい勢いで引っ張り出されて、叱責されたことなんて、ない。もちろん、大人になってからも。でも、こうやって教室の外に引っ張り出されちゃう子たちはかなり頻繁に教室の外に引っ張り出されている。こういうことって、明らかに差別だし、とても体罰に近いよな…と思うのです。小学校なら外に引っ張り出されないけれど、特別支援学校だと外に引っ張り出されちゃうの?と。

そもそも、納得して、次の行動が変わるのが良いのに、教室の外に引っ張り出されて、叱責されて、次の行動が変わるのなら、それは「恐怖」とか「ストレス」に裏打ちされて学習されたものになる訳で。そんなのが連なって学校生活が形成されたら、いつか子どもの心は壊れるし、「恐怖」や「ストレス」が原動力になって主体性なんて育つ訳もなく。その怖い先生がいなくなったら行動が復帰するか、あるいは在る程度心が壊れて、ひたすら指示を待つ人に育つかでしょう?それなら一層のこと、その先生とは接触しない方が良かったのでは?と思ってしまいます。

「この子は何度言われても堪えないから」

…って、人間、心なんてだれも視ることはできないし、自分自身だって記憶の落とし方によっては記憶が脳幹の奥に沈み込んで、それが原因で自律神経失調症やうつが発現することも有るわけで。

なかなか変わらない「叱ることも大切」のマジックフレーズに支えられた、教員『が』切れてしまう問題。

納得してもらうためには、「叱る」の他にどんな方法や作戦が考えられるか?と、みんなが思いを馳せられるようになると良いのに。

以上、具体的な対象をもたぬフィクションとして。

でも、なかなか変わらない現場への苛立ちを少し含んで。

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2015年06月16日

『デジタル教材コンクールで優良賞をいただきました』

 一時、大きな議論のあった性教育教材だったので、「ちょっと評価がつきづらいかな…」とも思っていたのですが、学習デジタル教材コンクールで優良賞をいただける運びとなりました。

桑ぴょんの特別支援教育マラソン3.0 あわい
『性教育教材のオープンリソース化』−特別支援教育に焦点を当てて− 


 昨年は特別支援教育にスポットを当てたデジタル教材のオープンリソース化で「日本児童教育振興財団賞」という賞をいただき、今年は特別支援教育にスポットを当てた性教育教材のオープンリソース化でのチャレンジでした。
http://www.gakujoken.or.jp/ghp/concul/sokuhou27.html

 障害があろうがなかろうが、恋愛もできるし、結婚もできるし、性生活も営める。いつか恋をする君のために教材を作りたい。

 そんな思いで作ってきました。8月7日には筑波大学にて実践発表も行います

 これを1つの励みにして、また一歩、幸せって何だろう?自分の誕生を肯定するって何だろう?自分自身のこういう考え方をもう一度疑うとどう見えるだろう?と問いを重ね、ひたむきに真実を追い求める歩みを進めていければと思います。

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posted by 桑ぴょん at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 指導・支援 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする