2015年07月05日

少数派が当たり前に配慮されるところから、集団の教育が作られていくといいな

特別支援学校では今、障害特性に応じて指導することの大切さが重要であると研修や校長伝達等を通して繰り返し担任をしている教員レベルに啓発を図られています。もっとLDについて知ってください、もっと自閉症スペクトラムについて知ってください、もっとADHDについて知ってください、もっとダウン症について知ってください、と。
でも、これってもっと土台に課題があると最近感じています。

★特別支援教育を普通教育をベースにして、そこに特別支援の要素を適宜取り入れる形で行うのか
 
☆特別支援教育を障がいがある人の少数派のニーズを起点として、集団の教育を形作っていくのか

 特別支援学校の先生の中でも、前者の★のスタンスの先生が相当数いるのですが、「普通教育に、特別支援が寄せてきてね」というスタンスの先生とはどこまで行っても噛み合わないなぁ…と思うのです。

 決まって聞こえてくる声は、

「そんなことでは将来やっていけない」

「将来、そんなに配慮される環境はない」

「障がいがあっても、ダメなものはダメ」

 なのですが、これを聞く度に思うのです。

 学校の先生は、「障害がない(現状)」という意味において多数派にいて、少数派である子供たちに、先生が受けてきた多数派の普通教育に寄れというけれど、障がいのある人に配慮するということや、特性に応じるということは「多数派に子供を押し込める」ということと全く別のことなんじゃないかな、と。


 ちょっとアナロジーを使えば、左利きの人がいるとして、右利きの人が、

「左利き、不便だね。色々と配慮しているように見せることはあるけれど、最終的には右利きになってね」

 といっているのと同じなのではないか、と。

 左利きの人は左利きのままでいい。でも、社会を生きていくのに、左利きであることによって不便さや、参加制約が起こるのであれば、それにどこまで配慮を求められるか、どんなツールがあればそれを解消していけるのかを一緒に考えましょう。というスタンスが障害特性に応じるということだし、配慮ということではないかと。

 頑張らなくていいと言っているのでは決してない。ちょっと頑張ると良い事あるということに、ポジティブな子供に育ってほしい。でもそれは、多数派の人に近づくということや、成績優秀な知的障害のある人になることとは等質ではない。

 少数派であるその子供のニーズから出発しなければ、その子はいつまでたっても現状を否定され、普通であることを求め続けられてしまう。障がいがあるという少数派の君は、どこまでいっても障がいがあるという君のままで認められていくべきだし、それで他の人と変わらぬ幸せになるべきなのだと。

  少数派が当たり前に配慮されるところから、集団の教育が作られていくといいな…と日々思っています。
 

 
 
posted by 桑ぴょん at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 指導・支援 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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